「グリシン」で眠れる本当の理由。脳ではなく「深部体温」が操る入眠スイッチ
🎧 音声で聴く
仕事が終わってやっとベッドに入る――なのに眠りにつくまでが長い、翌朝の疲労感が抜けない。 会議でパフォーマンスが落ちると「睡眠不足のせい」にしたくなりますよね。経営者のあなたなら、短時間で深く眠る「効率」を求めるはずです。
今回はサプリでよく話題になる「グリシン(Glycine)」と、睡眠開始に決定的に関わる「深部体温(core body temperature)」の関係を、薬剤師の立場から厳しく、しかし実務的に解説します。
結論だけ知りたい方へ先に言うと: 臨床データでは「就寝前のグリシン3g」が入眠促進と睡眠効率改善を示し、そのメカニズムは「深部体温の低下(末梢血管拡張による熱放散)」にあると説明されています。
なお、私の過去の睡眠失敗談や、より生々しい裏話については、音声(Podcast)の方で詳しく話しています。
本論:メカニズム(Mechanism)
ここからは語を選んで正確に説明します。グリシンの睡眠促進効果は単なる「脳を鎮める」作用ではなく、中枢—末梢の温度調節回路を介した生理学的効果です。
キーワード: 深部体温、末梢血管拡張、DPG(distal–proximal skin temperature gradient)、SCN(視交叉上核)、NMDA受容体
1. 経口投与と血中濃度の上昇
経口摂取されたグリシンは消化管から吸収され、血漿濃度が上昇します。動物実験では脳脊髄液(CSF)濃度も投与量依存的に上昇し、中枢の受容体に影響を与える濃度域に到達することが確認されています。
2. SCN(視交叉上核)におけるNMDAサイト活性化
グリシンは、体内時計のハブであるSCN(視交叉上核)のNMDA受容体を介して作用します。 SCNのNMDA活性化は、下流で体温調節に関与する前視床外側部(MPOなど)を介して末梢血管を拡張させます。結果として皮膚血流が増加し、体内からの「熱放散(heat loss)」が促進されます。
3. 末梢血管拡張と深部体温の低下
入眠直前の生理学的現象として、深部体温(core body temperature)の低下と同時に、手足などの末端皮膚温の上昇が観察されます。 これはDPG(遠位—近位皮膚温差)で表され、DPGが高い(末端が温かい)ほど入眠が速いとされます。グリシンはこの経路を補強することで、入眠潜時(sleep-onset latency)を短縮します。
4. 「入眠90分の黄金法則」
動物実験では、グリシン投与後の睡眠関連変化(深部体温の低下、NREM睡眠増加)は「最初の90分」に集中して観察されました。 つまり、就寝直前〜就寝後90分がグリシンの効果が最も顕著に現れる時間帯であり、この「90分ウィンドウ」が入眠の質を決める重要な期間です。
本論:エビデンス(Evidence)
エビデンスは臨床(ヒト)と基礎(動物)の両面から確認できます。ここでは数値を明確に示します。
ヒト:プラセボ対照・交差試験(Yamadera et al., 2007)
入眠に問題を抱える被験者に「就寝前3gのグリシン」を与えた研究です。
結果:
- 主観的睡眠満足度の改善
- 睡眠効率(sleep time / in-bed time)の改善
- PSG上での入眠潜時(sleep-onset latency)および徐波睡眠(SWS)潜時の短縮
これらが統計学的有意差(P < 0.05、一部 P < 0.01)をもって確認されました。従来のベンゾジアゼピン系睡眠薬とは異なり、睡眠構造(architecture)自体は破綻しませんでした。
動物(ラット):作用機序と時間経過(Kawai et al., 2015)
ラットにおける解析データです。
結果:
- グリシンは「最初の90分」にNREM睡眠を有意に増加させた
- NREM潜時を 約54.7分 → 36.8分 に短縮した(vehicle vs glycine)
同時に深部体温が低下し、末梢(尾)皮膚血流が増加しました。SCNを切除するとこれらの効果が消失したことから、SCNを介した中枢機序が立証されています。
展開:残酷な現実(Reality)
さて、これが日本の多忙なビジネスマンにどう当てはまるか。
あなたが該当しやすい「リスク像」
- 夜遅くまでのPC作業
- カフェイン常用
- 移動・時差で体内時計が乱れがち
- 布団に入っても考えがぐるぐるするタイプ
こうした人は、入眠潜時が長く、最初の90分での睡眠の質が低下しやすい傾向にあります。データ上も、グリシンはこうした「入眠困難(DIMS)」に有効な傾向があります。
期待できる効果の現実的なライン
主観的な睡眠満足度の改善や、入眠までの時間短縮(数十%の改善報告あり)は期待できます。 ただし、「寝つきが悪い→即効で気絶するように眠れる」という魔法ではありません。睡眠の根幹(就寝時間、光曝露、アルコール・カフェイン制御)を整えた上で、補助的に用いるのが現実的です。
結論と独自の視点
科学的に言えば、グリシンは「深部体温を下げ、入眠までの熱放散を補助する」ことで入眠を短縮し、睡眠の質を改善するという整合的なデータ群があります。
しかし、重要なのはここからです。
西洋医学の限界
臨床試験は短期・少数例が多く、被験者の生活習慣・年齢差・慢性疾患の影響を完全に網羅していません。「論文は真実の一断面」を示すに過ぎず、全員に同じ効果が出るわけではありません。
東洋医学(漢方)との接点
漢方的には「入眠前の身体の温度・血の巡り」を調えることは、古典的な安神(精神を鎮める)策と合致します。 例えば「温めて末端血行を良くする」手法(足湯、温灸など)は、西洋的なDPG操作と同じ目的を達します。
したがって、「論文的アプローチ(グリシン投与)」+「漢方的・行動的介入(就寝前の温め・静的ルーティン)」の併用が、実務的には最も合理的です。
薬剤師からの現場の処方箋
- 就寝30〜60分前にグリシン3gを摂取(臨床データに基づく)。
- 同時に就寝前の末端温め(足湯、靴下)やブルーライト遮断を行い、熱放散—DPG経路を強化する。
グリシンは「即効で脳を眠らせる薬」ではなく、「深部体温の調節を通じて入眠のハードルを下げる補助策」です。 まずは行動を変え、それでも改善が乏しければグリシンを試してみる。 必要なら、あなたの服薬・生活習慣に合わせた「個別コンサル」で、最適な睡眠戦略を一緒に作りましょう。
References
- Yamadera W. et al., Sleep and Biological Rhythms, 2007
- Kawai N. et al., Neuropsychopharmacology, 2015
- Kräuchi K. et al., Nature, 1999 / Physiology & Behavior, 2000
- Bannai M., J Pharmacol Sci, 2012
- Harding EC. et al., The Temperature Dependence of Sleep, 2019