心電図と虚数——「存在しない数」が生命のリズムを記述する

はじめに
虚数(Imaginary number)は「2乗するとマイナスになる数」として定義される。そんな数は現実には存在しない——と、17世紀のルネ・デカルトはこの概念を揶揄して “imaginary” と呼んだ。
しかし今日、あなたが患者の心電図モニターを眺めるとき、その波形の裏側では虚数が走っている。心電図を「読める情報」に変換する数学的プロセスは、虚数なしには成立しない。「存在しない数」が、生命の最も根本的なリズムを記述しているのだ。
本稿では、薬剤師・医療従事者がほぼ使わない虚数という概念が、なぜ心電図・脳波・薬物動態の奥底に潜んでいるのかを、数式を最小限に抑えながら論じる。

1. 虚数とは何か:「回転」を記述するための言語
実数(Real number)は数直線の上を走る。正の方向へ、あるいは負の方向へ。この世界では「前か後ろ」の2択しかない。
虚数単位 i(= √−1)を導入すると、突然「横方向」が生まれる。実数と虚数を組み合わせた複素数(Complex number)は、平面を自由に動けるようになる。
そして、ここが核心だ——複素数の世界では「掛け算」が「回転」を意味する。i を1回掛けると90度回転する。i を2回掛けると(i² = −1)180度回転する。すなわち符号が反転する。
虚数 = 回転を記述するための言語。
これを最も美しく表現したのが、18世紀の数学者オイラーが発見した公式だ:
e^(iθ) = cosθ + i·sinθ(オイラーの公式)
この式は「回転(e^(iθ))は、横方向(cos)と縦方向(sin)の組み合わせで完全に記述できる」ということを意味する。円運動と波(正弦波・余弦波)は、複素数という言語を通じて完全に等価になる。
心電図が「波形」である以上、その分析には必然的に「回転」の言語——すなわち虚数が必要になる。

2. フーリエ変換:複雑な波を「単純な回転の束」に分解する
心電図(ECG)の波形は複雑だ。P波・QRS波・T波が組み合わさり、さらにノイズが重なる。この複雑な波形から「心臓の何が起きているか」を読み取るには、波を「単純な成分」に分解する必要がある。
この分解を行うのがフーリエ変換(Fourier Transform)だ。1822年、ジョセフ・フーリエは「どんな複雑な波も、シンプルな正弦波・余弦波の組み合わせとして表現できる」ことを証明した。
フーリエ変換の直感:
複雑な心電図波形 → 複数の単純な「周波数成分」に分解
- P波成分:どの周波数・どの強さ・どのタイミングで現れるか
- QRS波成分:同上
- ノイズ成分:同上
この分解を数学的に実行するとき、計算の中核に複素数(虚数)が登場する。なぜなら「波のタイミング(位相)」は実数だけでは表現できないからだ。
| 実数部分 | 虚数部分 | |
|---|---|---|
| 記述するもの | 波の「強さ(振幅)」 | 波の「タイミング(位相)」 |
| 心電図での意味 | P波の大きさ | P波がいつ来るか |
実数と虚数を組み合わせた複素数として波を記述することで、「何がどの強さでいつ来るか」が一つの数式にパッケージ化される。これが心電図解析の数学的な核心だ。
Cooley & Tukey(1965)は、このフーリエ変換を現代のコンピュータで高速に実行するアルゴリズム(FFT: Fast Fourier Transform)を発表した。今日の心電図モニター・MRI・超音波診断装置の信号処理は、すべてFFTが支えている。

3. 心電図の読影と「位相」——タイミングは実数では表現できない
具体的に考えよう。心房細動(AF)の心電図は、P波が消失し不規則な基線動揺が現れる。この「不規則性」を定量化するには、「本来どのタイミングで来るはずのP波が来ていない」という「タイミングのズレ」を数値として捉える必要がある。
このタイミングのズレ——位相(Phase)——は、実数だけでは表現できない。前後方向(正・負)だけでは、「進んでいるのか遅れているのか」の情報しか持てない。
複素数を使うと:
- 実数部(振幅): 信号の「大きさ」
- 虚数部(位相): 信号の「時間的位置」
の両方を一つのベクトルとして扱える。心房の電気的興奮が心室に伝わるまでの「微妙なタイムラグ」(PR間隔)も、この複素数表現の中に数値として含まれる。
心電図を見て「PQ時間が延長している→一度ブロックを疑う」という臨床判断は、人間が目で見て行う読影だ。しかしコンピュータが同じ判断を行うとき、その裏では虚数を用いた位相解析が走っている。

4. 薬物動態への接続——コンパートメントモデルに潜む複素数
薬剤師が日常的に扱う薬物動態(Pharmacokinetics: PK)にも、複素数は潜在的に関与している。
2コンパートメントモデルの濃度-時間曲線は以下の形を取る:
C(t) = A·e^(−αt) + B·e^(−βt)
通常は実数の指数関数として解析されるが、解析の過程で特性方程式を解くと複素根が出現する場合がある(特に振動成分を持つ複雑な分布を示す薬物)。複素根は「濃度が振動しながら消失する」という動態——すなわち「単純な減衰ではなく、時間遅れを伴う分布と消失の相互作用」を記述する。
より直接的には、薬物受容体の結合動態を確率論的・周波数領域で解析する際に、ラプラス変換(Laplace Transform)が使われる。ラプラス変換は複素平面(s = σ + iω)上で定義され、「薬物が系に入ってから消えるまでの全プロセス」を複素数として表現する。
実務で虚数を計算する場面はほぼない。しかし、薬物動態解析ソフトウェアの内部では、この複素平面上の演算が常に走っている。

5. 「虚」が「実」を支えるという構造——医療と数学の接点
デカルトが「ありえない数(imaginary)」と揶揄した虚数は、今日では医療診断の基盤を支えている。
存在しない数が、存在する生命を記述している。
この逆説は哲学的に示唆的だ。「今の高さ(実数)」だけを見ていては捉えられない「リズムの全体像(複素数)」がある。心電図の波形は、実数(振幅)と虚数(位相)の両方が揃って初めて完全に記述される。
薬剤師・医療従事者として、数式を書く機会はない。しかし心電図モニターを眺めるとき、その波の裏側に「想像上の数」の回転が走っていることを知ることは、医療と数学が接する場所の美しさを感じることかもしれない。
「見えない回転(虚数)が、見える結果(心拍数・診断)を生み出す」——これは医療機器の設計原理であり、数学が世界を記述する方法の本質でもある。
結論
虚数は「ありえない数」ではなく、「回転とタイミングを記述するための言語」だ。フーリエ変換によって複雑な生体信号を周波数成分に分解するとき、その計算の核心には必ず複素数(虚数)が使われる。心電図・脳波・MRI・超音波——現代の医療診断装置はすべて、虚数の上に立っている。
薬剤師が直接扱う機会のない概念だが、「処方した薬の効果を確認する心電図が、虚数なしには読めない」という事実は、医療と数学の深い接続を示している。
参考文献・主要概念
- Euler, L. (1748). Introductio in analysin infinitorum. — オイラーの公式の初出
- Fourier, J.B.J. (1822). Théorie analytique de la chaleur. — フーリエ変換の原典
- Cooley, J.W., Tukey, J.W. (1965). An algorithm for the machine calculation of complex Fourier series. Mathematics of Computation, 19(90), 297-301. — FFTアルゴリズムの原論文
- Oppenheim, A.V., Schafer, R.W. (2010). Discrete-Time Signal Processing (3rd ed.). Prentice Hall. — デジタル信号処理の標準テキスト
- Wagner, G.S. (Ed.) (2007). Marriott’s Practical Electrocardiography (11th ed.). Lippincott. — 心電図の臨床標準テキスト
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